議論における誠実さの判断は当事者間だけで行われるものではない

lets_skepticさんのブログSkepticism is beautifulのエントリ求められているのは当たり前の誠実さではないだろうか - Skepticism is beautifulのコメント欄でtittonさんという方にレスして応答がありましたが、続きは長くなりそうなのでこちらに書きます。


以下求められているのは当たり前の誠実さではないだろうか - Skepticism is beautifulのtittonさんコメント
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20081224/p1#c1230614987
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20081224/p1#c1230615856
に対する応答です。

(引用)

>だからあくまで誠実な対応を続けるなら、俺が「なるほどその通りだった、関係がなかった」と納得するまで続けるべきじゃないの?でもそんなの無理だよね、俺だって無理だ。

この場合はlets_skepticさんの応答2008-12-24エントリコメントへの返信 - Skepticism is beautifulで一応の終了となります。
それを当事者であるtittonさんや閲覧者が誠実な対応と取るかどうかは、今後lets_skepticさんがどういう対応を受けるかで分かります。


(引用)

>つまり誠実な対応をすべきだ、というこのエントリの主張への反証の実例となっているという意味で、俺の一連のコメントは「関係がある」ということ。

そういう意味では確かにtittonさんのコメントは関係があったのでしょうが、それは『関係ない内容のコメントに対するlets_skepticさんなりの誠実な対応の実例』における『関係のない内容の提供』という一面のみです。
tittonさんのコメントの【内容】は当該エントリの【内容】には関係ない事に変わりは有りません。
それをtittonさんが納得するかどうかや、二人のやり取りに対して第三者がどういう判断を下すかはまた別の話です。
誠実さとは当事者間のみの判断対象では無い事は覚えておかれた方が宜しいかと。


ちなみにですね、lets_skepticさんがコメント欄で行っているのは『tittonさんのコメントは元エントリと関係有りません』という説明ばかりで『議論なんかしてない』んですよ。
tittonさんはもう一度確認されてみては如何でしょうか?

>何度か述べているけれど程度の問題とするならば、客観性のある判断基準が示されなければならない。ここまではOKでこの先はダメだというなら、その理由も示されなければならない。それを示す責任はその判断を行使する側にあるはず。

程度の問題ならば客観性のある判断基準が示されなければならないとする論理的帰結は有りませんよね。あるというなら是非説明して頂きたい所です。
実際問題として、人物評なんてのは現実として個々の判断結果が集まった末に漠然とした多数合意で決まる場合が多く、少なくとも誰かが示した判定基準に沿うような性質の物ではないと思いますけども。
tittonさんは誰かが誠実であるか否かの判断基準を第三者に用意してもらってるのでしょうか。
それは個々人に帰結するからこそ、元エントリでは『誠実さの基準』なんかには触れてないのではないでしょうか?
大事なので二度言っておきますと、元エントリでは『誠実さの基準』なんかには触れられてないんです。


(引用)

>ついでに書くけど、なんか「藁人形論法」をはじめとしてやたら用語を羅列するのが好きな人がいるけれど、用語は知っているだけでは意味がない。適切に使えなければ、ね。適切に使うというのは「これは○○だ」と説明も論証もなしに断言することではなく、きちんとその根拠を示して使うこと。

【『こういう心理』とやらが示唆されている所を具体的に、かつ極端な相対化をせずに指摘できないと】と根拠を示しておりますが。
tittonさんが読めてないだけだと判断します。


(引用)

>どうもそれが出来てない人が多いのは、多分生兵法の人が多いからなんじゃないの?よくしらないけどさ(笑

『「多い」の根拠を示さないと』(←根拠なので強調)、自説に有利な実態の無い対象を想定してそれを批判するという『藁人形論法』ですよ。


(引用)